兵庫運河平面図
兵庫の海岸線は、和田岬を頂点として、海に向かって大きく突き出した形をしている。そのため、南西からの風に対しては、突き出た海岸線が防波堤の役割を果たして強い抵抗力を持つが、逆に南東からの強風と荒波はこれを遮るものがないため、激しい暴風雨が吹き荒れる度に甚大な被害を被ってきた。
明治4年(1871)に発生した暴風雨の直撃を受けた兵庫津は、湊の避難場所がないために、難破船が580隻、死者24人行方不明者16人を出した。明治7年、兵庫区長、神田兵右衛門(当時31才)は和田岬を回る難所、東南風の事故を考えて兵庫区島上町から長田区駒栄町に至る運河を計画し、同時に堀削土で苅藻島および海岸の埋め立てを計画した。工費は兵庫県2万5千円、兵庫津の北風荘衛門と伊丹の小西新右衛門から2万5千円、合計5万円を以って「新川社」をつくって工事を開始した。
神田兵右衛門は運河開設主任であった。工事請負業者が倒産するなどの事故があったが、明治9年(1876)5月、新川運河部分が完成し、この後、台風などによる船舶被害は大幅に減った。新川運河は深さは千潮水面下で、1.8m幅27.3m、延長約1.3km。工事費は12万6千9百十四円であった。
神田兵右衛門の構想は、その後西尻池の大地主、池本文太郎と駒ヶ林の魚問屋主人、八尾善四郎に引き継がれた。両者は私財をなげうって、明治29年(1896)1月に着工し、明治32年(1899)12月に完成した。林田村(現・長田区)の海岸から、南逆瀬川を経て新川運河に至る本線約1.8km、支線727m、増田製粉所の南までが完成。兵庫津の沖を航行する船舶の避難泊地として、また荷揚げ場として大きな機能を果たすことになった。明治26年兵庫運河(株)が設立されましたが、経営が難しくなり大正8年に苅燥島を含めて神戸市に売却されました。
八尾善四郎の銅像は、高松橋の西端から運河を見下ろして立っている。これからの開削土砂から苅燥島(15,157平方メートル)が生まれた。
(「神戸港1500年」による)